どういう人なら愛せるか

 

《100パーセントの愛》を定義するならば、それは間違いなく自己愛だと思います。もし私が、この人のためなら死んでもいい、この人が死ぬくらいなら私が死んだほうがマシだと思える誰かがいたとしても、そこにはどうしても多少のエゴが入ってしまうからです。(この場合なら例えば、この人のいなくなった世界で生きていくなんて苦痛だから、とかの理由も少なからずあるだろうということ)

 

それでは、他者への愛をその《100パーセントの愛》に限りなく近づける方法があるとするなら、それはなんだろう。

 

 

話は変わりますが、私たちは生きているあいだ、何かを得るときには代わりに何かを失っているように思います。世の中を知る代わりに純粋さを失ったり、何かに慣れて要領をえる代わりに閃きやときめきを失ったり。

 

わたしたちは知らないあいだにいろんなものを失っている。失いながら生きていく。いまじぶんにできることのうちからどれかを選ぶことが生きることなら、生きるということはそれ以外のいくつかのなしえたかもしれないことを棄てていくということだ。わたしたちが失ったもの。そうでありえたかもしれないじぶん、でももうそうはなれないじぶん。

(鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』より引用)

 

この考え方は得る代わりに失うというのとは少し違うかもしれませんが、おおむね共感できます。社会に適応しようと生きていると、知らず知らずのうちに『そうであったもう一人の自分』を犠牲にして今の自分になっているような気がします。

 

 

なんだか前置きが長くなってしまいましたが、自己愛とほとんど等しく他者を愛せるとするならば、その人はきっと(過去に置いてきてしまった)もう一人の自分のようだと思える人なのかな、と思います。

自分がこれまでに失ったものを持っている人。人は自分にないものを求めるとよく言いますが、その理由がわかったような気がしました。

 

 

 

 

(純粋で世間知らずでこの世界は自分を中心に回っていると信じてやまないような傲慢さを持っている、そういう人を憎めないのです、、、😱笑)