「ずっと一緒にいようって言ってくれたのに

 

 

嘘だったんだね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ってよく聞くセリフのような気がするけど、どこで聞いたかは全然思い出せない。何かの歌詞かなぁ?(バックナンバーとかクリープハイプの曲にありそう)

でも、誰しも一度は聞いたことのある言葉、もしくは見たことのある場面、あるいは実際にしたことのある体験だと思います。

 

そんな守れない約束ならそもそもするな、期待させるな、無責任だっていう言い分ももちろんわかります。

 

でも、この「ずっと一緒にいよう」っていうのは《未来に対する約束》ではなく、

ただその時その瞬間は、本当にずっと一緒にいたいって《確かにそう感じたという事実》ってことなのかなと思います。多分、、、

 

そういう意味合いにおいては嘘じゃないってことになるのかな。結果としては永遠的なものではなかったとしても、少なくともその瞬間だけは本当だった。そう考えると、ちょっとは救われたような気持ちになりませんか?

 

 

 

どういう人なら愛せるか

 

《100パーセントの愛》を定義するならば、それは間違いなく自己愛だと思います。もし私が、この人のためなら死んでもいい、この人が死ぬくらいなら私が死んだほうがマシだと思える誰かがいたとしても、そこにはどうしても多少のエゴが入ってしまうからです。(この場合なら例えば、この人のいなくなった世界で生きていくなんて苦痛だから、とかの理由も少なからずあるだろうということ)

 

それでは、他者への愛をその《100パーセントの愛》に限りなく近づける方法があるとするなら、それはなんだろう。

 

 

話は変わりますが、私たちは生きているあいだ、何かを得るときには代わりに何かを失っているように思います。世の中を知る代わりに純粋さを失ったり、何かに慣れて要領をえる代わりに閃きやときめきを失ったり。

 

わたしたちは知らないあいだにいろんなものを失っている。失いながら生きていく。いまじぶんにできることのうちからどれかを選ぶことが生きることなら、生きるということはそれ以外のいくつかのなしえたかもしれないことを棄てていくということだ。わたしたちが失ったもの。そうでありえたかもしれないじぶん、でももうそうはなれないじぶん。

(鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』より引用)

 

この考え方は得る代わりに失うというのとは少し違うかもしれませんが、おおむね共感できます。社会に適応しようと生きていると、知らず知らずのうちに『そうであったもう一人の自分』を犠牲にして今の自分になっているような気がします。

 

 

なんだか前置きが長くなってしまいましたが、自己愛とほとんど等しく他者を愛せるとするならば、その人はきっと(過去に置いてきてしまった)もう一人の自分のようだと思える人なのかな、と思います。

自分がこれまでに失ったものを持っている人。人は自分にないものを求めるとよく言いますが、その理由がわかったような気がしました。

 

 

 

 

(純粋で世間知らずでこの世界は自分を中心に回っていると信じてやまないような傲慢さを持っている、そういう人を憎めないのです、、、😱笑)

永遠のマザー・コンプレックス



冬の日の寒い朝

冷たくなった小さな頬を

優しく包んでくれた

その手の温かさは

この上なく心地の良い

目覚めをもたらした

それはまるで

私がこの世に生まれたときを

思い出させるような

祝福の鐘が鳴り

存在自体を祝われた

そのときを蘇らせるような



私を再びこの世に

「生む」ことができるのは

世界でたったひとりの

母だけなのだった

 

 

ガラスでできた家に住む者は、石を投げてはならない

 

People who live in glass houses should not throw stones.

という英語のことわざがあるのを知っていますか?

 

直訳で、『ガラスでできた家に住む者は、石を投げてはならない』という意味。つまり、自分にだって弱いところやダメなところ(ガラス)があるのだから、人の落ち度を過剰に責め立てるな(石を投げるな)ということですね。

 

 

一つ前のバイト先にはわりと長い間在籍していたのですが、そこの古株パートさんがまあ典型的なお局様ってかんじの人たちで🙄

私は奇跡的に気に入られて仲良くやっていたんですが、いびられる新人さんたちを死ぬほど見てきました。新人なんて間違えるのが当たり前なのに、って大学生の私でもわかるんだけどナァ🙄

 

この世に完璧な人間なんていないのだから当たり前なんですが、お局様たちもまあミスはするんです。それは自体は、言ってしまえばしょうがないことだし、誰にでもあることなんですけど、日頃から新人さんたちに石を投げている姿を見ているこちらとしてはやはり

😒(…あれだけ人に言っておいてさぁ)

という感情を抱いてしまうのは正直やむを得ない。笑

いわゆる特大ブーメランってやつです。こっちとしてはズコーですよ。恥ずかちぃ。このことわざを是非とも彼女たちに捧げたい。

でも、自分自身もガラスの家に住んでいることを忘れずに、誰かの落ち度を批判するのではなくカバーするような人ももちろんいました。同じミスだとしても、そういう人にだったら

😉(誰にだってミスはあるししょうがない)

という感情に自然となると思うんです。だから、絶対こっちの方がいいんです。どう考えたって本人にとってもお得なんですよ。

(というかいちバイトが偉そうに語ってすみません。しがない個人のブログですのでお許しくださいませ。笑)

 

 

何が言いたいかと言うと、結局、誰かを過剰に責めるということは、回り回って自分自身を責めることになると思うんですよね。今回はアルバイト先という狭いコミュニティを例に出しましたが、大きく考えれば世の中全体に通じる話だと思います。相手に完璧を強いることは自分自身で生きにくい世の中を作っているようなもので、非常に滑稽ですよね。

 

責め合う世の中ではなく、許し合う世の中になっていけばいいですね。まあ多分ならないんですけどねぇ🙄かにお

となりのトトロシンドローム

 

近頃いきなり蒸し暑くなってきました。四国あたりはもう梅雨入りしたらしいですね。もう少しで夏がきます。私は全季節の中で夏が一番好きです。

 

今までは漠然と夏が好きだったんですが、大学の授業で自分を見つめ直す機会があり、その理由がわかった気がします。私は、大人になれない・なりたくないという想いがあり、まだ子どもでありたいという「子どもであることへの執着」がとっても強いのです。(法律に則ればそりゃあもう立派な大人ですが、そういう体裁的なことはちょっと忘れてください。笑)

 

なぜ夏と「子どもであることへの執着」が結びつくのかと思われるかもしれません。複数ある理由のうちの一つになってしまいますが、それは物語の世界で子どもたちが不思議な体験をする季節が、大抵夏だからです。ほら、思い出してみてください。トトロと出会うのも、神隠しに遭うのも、誰かと入れ替わるのも、時をかけるのも全部夏。圧倒的に夏。笑

そういう物語を通して、私の体にはしっかりと【夏=子ども】の方程式が染み付いてしまっている。それはある意味で、子どもであることを許してくれるような季節であると感じてしまうわけです。

 

しまいには『子どものときにだけ あなたに訪れる 不思議な出会い』なんて歌われてしまいますからね。(私まだトトロに会ってないし😭だから大人になれないし😭という気持ちになるんですけど、、、完全に拗らせている、、、笑)

もちろんアホな主張であると自覚はあります。言うなれば私は、トトロなんているはずがないと薄々気が付いていながらもそれでもトトロを探してしまうような、そんな状態なのです。

 

上記のような現象を

となりのトトロシンドローム

とここに命名したいと思います。勝手に言ってろってかんじですね🥺ぴえん

 

子どもころは目に見える全てが新鮮であったし、楽しかった。これから大人になり、どんなにお金のかかった贅沢な遊びをしても、あの頃の楽しさには敵わないだろうなぁ。ただ水たまりを蹴り飛ばすだけのことが、なぜあんなに楽しかったのか、、、

結局は何をするかではなくて、どう感じられるか、という気がします。失いたくないですね。

 

綺麗事みたいな話だけど

 

大学もオンライン授業。ステイホーーーーーム中で暇ですし、ちょっと思い出話でも。笑

 

高校3年生の終わり頃、人生で初めてアルバイトしました。近所のドラックストアで品出しとレジ打ちをするっていうアルバイトの定番ってかんじの仕事内容でした。が、、、

 

私、本当に要領が悪くて悪くてとんでもないやつだったと思います。笑

特にレジ打ちへの苦手意識がハンパじゃなかった。というかまず、人様のお金に触れるとことがめちゃくちゃ怖かった!だって責任重大じゃん人のお金だよ?!笑

 

そして、私が住んでるところ、はっきり言っちゃうとあんまり治安がいいとは言えないようなところで、結構きつい態度で接してくるお客さんとかが多くて。正直めちゃくちゃしんどかった_(┐「ε:)_

 

そういうわけで、もう泣きたい😭😭😭辛い😭😭😭って思いながらバイトに行ってたんだけど、不思議と実際には涙は出てきませんでしたね、、、

というのも、まあまず第一に仕事ができない自分が悪いという自覚があったし。そして仕事中に泣くなんてありえない!という理性が高校生ながらに働いてブレーキがかかっていたからだと思います。

 

 

そんなある時、私がいつものようにレジで鈍臭さを発揮してあせあせあわあわテンパってレジ打ってたら、お客さんのおばあちゃんがニコニコしながら私にこう声をかけてくれました。

「あら、新人さん?いいのよ、ゆっくりやれば!焦らないでいいんだからね。大丈夫よ」

 

私、もう大号泣。

 

それまでどんなに嫌な態度取られても、辛いと思うことがあっても絶対に泣かなかったのに、たった一言、おばあちゃんに優しい言葉をかけてもらっただけで、糸がぷつりと切れたみたいに涙が止まらなくなって、、、いやー不思議ですよね。『北風と太陽』ってまさにこういうことなんですかね?

 

 

なんだか綺麗事みたいだなって思われるかもしれませんが、やっぱり優しさが一番、人の心を動かすんだなって、実感として思います。きっと、あのおばあちゃんも誰かに優しくしてもらったことがあるんだろうなぁ。だから優しさを知っている。知っていればまた他の誰かに優しくすることができる。(子どもに「人に優しくしなさい」と教える大人は多いと思うけど、それは言葉で教えるより実際に優しく接してあげる他ないんでしょうね、、、)

 

日々生活の中で、つい余裕がなくなってしまう時もありますが、こういう気持ちを忘れずにいたいなあと思います。

大森靖子さんの『さっちゃんのセクシーカレー』を聴いて泣いた話

 

みなさんは音楽を聴いて涙することってありますか?

 

タイトルにもありますが、私は最近『さっちゃんのセクシーカレー』という曲を聴いて思わず涙してしまいました。

 

私自身、音楽にはあまり詳しくなくて、本当につい最近『ミッドナイト清純異性交遊』をたまたまYouTubeで聴いたことがきっかけで大森靖子さんを知りました。(結構有名な方なんですよね?)初めて曲を聞いた時の衝撃がすごかったです。

全体的に、いわゆるメンヘラ系の歌詞なんですが、それを上手いこと音楽的な要素で調和してるのがすごい。ざっと聴いてみた感じ、受け付ける曲と私には過激すぎる、、、ってなった曲とがあったのは確かだけど、その辺は人それぞれかも。

 

それで本題の『さっちゃんのセクシーカレー』なんですが、歌詞の内容を勝手な解釈で読みとると、

小さい頃仲良しだった女の子が成長し都会に行って、だんだんと変わっていくのを切なく思いながらも、ただ遠くから見ていることしかできない男の子の歌

と言ったかんじかな?私はシンプルにそう解釈しました。

 

銀色のナイフで 春を切り刻んで
今日はどんな味の 退屈を食べたの
こんな田舎で ぼくより強いひとに
はじめて会って 嬉しかったよ

 

おんなじおもちゃ 別々にあそんだ
経験値稼ぎ レベル上げの毎日
ぼくにしかできない必殺技もできた
でも まだ 戦えないよ

(中略)

成長しないで さっちゃん
茶髪にしないで さっちゃん
彼氏つくらないで さっちゃん
最強でいてよ 僕の特別

 

さちこなんて名前 幸せになれるの?
今日はどんな服で 自分を壊すの?
東京で髪の長い男とばっか
つるんでいるの しってるよ

(以外略)

 

『僕』にとって唯一無二で『最強』だったさっちゃんが、だんだんその他の女の子とおんなじになっていってしまう。『髪の長い男とばっかつるんで』、そんな男に依存するような、そして彼らに気に入られるように茶髪にしたり着飾ったりして『自分を壊す』ような『最強』ではないさっちゃんになっていってしまう。普通になっていってしまう。でも僕はどうすることもできないし、何か言う権利もない。

 

自分ではない誰かに対して、こう変わってほしいだとか、こういう風に考えてほしいだとか望むことってこの上なく傲慢なことだと思うんです。(そういった場合、他人を変えようとするのではなく、自分を改めるべきであるから。)

だけど、変わらないでほしい、とはどうしても思ってしまうものじゃないですか?純粋なものや、キレイなものや、好きなものであるならなおさら、、、

しかし、そのままでいてと願うこともまた同じく傲慢なことなのかもしれませんね。

 

何かを得られないことよりも、何かが失われてゆくということの方がやるせなく、切ない思いにかられるなあ、と思わず自分の人生に重ねてしんみりしてしまいました、、、